日本では明治時代に最初の保険会社が設立されてからは多くの保険会社が設立されては破綻や合併を繰り返していましたが、 第二次対戦後は大蔵省の実態的監督主義(※注)による「護送船団方式」の保険監督により長らく損害保険20社体制が続きました。 この時代は金融機関の業務は大蔵省が「箸の上げ下げにも口を出す」といわれ、損害保険も火災、自動車、傷害などの個人種目は 料率団体法により独占禁止法の適用除外とされ、企業保険でも船舶保険など外国と取引する保険以外はほとんどすべての会社が 同じ約款と料率を使って営業していました。、
護送船団というのは戦争時に商船を敵の攻撃から守るために船団の周囲を軍艦で護衛し、船団の速度は一番遅い船に合わせて進む方式です。 同様に保険業界を監督する場合も一番経営効率の悪い会社に監督の基準を合わせると全体が落ちこぼれずに監督基準をクリアできるため、 戦後から高度成長期にいたるまで日本の金融業界はこの「護送船団方式」に守られ順調な発展を遂げてきたのです。
ただし、この方式に守られていると業界内での競争がないため自助努力が働きにくく、経営の効率化が遅れ、 温室育ちの植物のように外の環境では生きられなくなってしまうのです。海外で起きた金融自由化の波が日本に押し寄せ、 日本でも金融ビッグバンが起こり護送船団体制が崩れると、主要な保険会社は競争に備えて資本力を増強するため次々に合併を繰り返し、 最終的には大手3社(3メガ)に収斂されてしまうか、あるいは外資系や他業界の資本グループに加わったのです。
護送船団時代は損保各社は会社の規模に応じてグループを作っており、大手会社は順番で損保協会長を務め、 大手社共同で業界共通商品を開発したり、あるいは単独で新商品を開発しても全社に認可を無償で開示するなど業界の世話役的立場にありました。 したがって中小会社は自社で商品開発を行うことがなかったため、自社の商品内容さえ理解していないこともありました。 中小会社に積立保険の数理を理解できる人材がいないことがわかり、大蔵省が中小損保にアクチュアリー養成を命じたのもこの頃です。 保険業務においても中堅会社は中堅どうしで情報交換をして業界の秩序を守りながら大手会社に協力しました。 さらに新設会社もグループを作って中堅会社経由で大手会社から情報をもらったりして 安定した経営を続けることができました。 このように損保業界は20社独占体制でしたが、その中でも規模別あるいは業態別にグループを作って互いに協力していたため、 業界内部では以下のような分類別の呼び方がありました。