火災保険の歴史

 火災保険の始まりはロンドン大火であるといわれています。 1966年にパン屋のかまどから燃え広がった火災は4日間燃え続け、ロンドン市内の家屋の85%が焼失したのです。 これ以降家屋はすべて石造またはレンガ造となり、道路の幅員も拡大され木造建築は禁止されました。 そして世界最初の火災保険もこのとき生まれたのです。

 このロンドン大火とローマ大火、明暦の大火を世界の三大大火と言うらしいのですが、明暦の大火は別名「振袖火事」といわれ不思議な話がついています。 明暦の大火は1657年3月2日に発生した火災で、延焼面積、死者ともに江戸時代最大の火災であり、これにより江戸城の天守閣も焼失して以後は再建されていません。 その話とは恋の病により17歳で亡くなった娘の振袖が質屋に流され、その振袖を買った娘も1年後の同じ日に17歳で亡くなりました。 次にその振袖を買った娘も17歳で亡くなったため、振袖は本妙寺で供養されることになりましたが、 和尚が読経しながら振袖を火中に投げ入れたところ突如つむじ風が吹いて燃える振袖が寺の本堂の中に飛ばされ燃え広がったというものです。 じつはこの話には裏があります。実際の火元は本妙寺ではなく隣の老中屋敷だったというもので、 老中の屋敷が大火の火元であっては幕府の権威にキズがつくため寺が火元ということになったというものです。 実際に寺はその後取り潰されることもなく、大火以前より大きな寺となり、老中からは毎年多額の供養料が支払われたそうです。

 ロンドン大火の後、建築業者兼医師であるドクター・ニコラス・バーボンが世界最初の火災保険引受会社(The Fire Office)を設立しました。 この保険会社の保険を契約すると家の外から見える場所にファイアーマークと呼ばれる印をつけました。 火事が発生すると保険会社の消防隊が家にかけつけ、ファイアーマークがあれば消火作業を行うが、なければそのまま引き返したそうです。 この保険会社は一時大繁盛しましたが、これに目をつけたロンドン市がこれより安い保険料で参入してきたので、 ニコラス・バーボンとの争いになりますが結局ロンドン市は撤退してしまいます。そしてニコラス・バーボンの会社も結局は破綻してしました。 これは引き受けた保険の将来の危険に対する積立金(責任準備金)が不足していたためで、 現在の保険監督制度でも責任準備金の不足は保険会社にとって致命的欠陥とされ、業務改善命令の対象となります。

 保険というのは最初に保険料をもらい、保険金の支払いはずっと後になるため、保険業を始めると最初は入金ばかりで一見非常に儲かるようにみえます。 このためロンドンで最初に火災保険ができたときもロンドン市が保険市場に参入してきたのですが、 日本でも明治時代には保険会社が乱立し、 その後存続できずに統合整理され保険が自由化される1980年代までは長らく大蔵省の監督指導による20社体制が続きました。 その後金融自由化による合従連衡で現在の3メガ体制ができあがったのです。 現在では保険会社は保険業法により十分な責任準備金を積み立てることが義務付けられているので、設立当初は赤字となるのが普通です。

 アメリカの火災保険の歴史で有名なのはベンジャミン・フランクリンです。 彼は政治家、外交官、物理学者、気象学者、実業家で、合衆国独立宣言の起草者の一人でもあります。 雷雨の中で凧をあげ、落雷させて雷が電気であることを実証したことでも知られていますし、アメリカ最初の図書館を作ったり、 ペンシルバニア大学(大学院であるウォートン校は日本からのMBA留学が多い)の創立者のひとりでもあります。 独立宣言が起草されたフィラデルフィアにはフランクリン博物館(映画ロッキーで主人公がトレーニングをする階段のあるところです)、 フランクリン大通り、フランクリン橋、フランクリン公園などがあり、どこもかしこもベンジャミン・フランクリン尽くしですが、 はじめて火災保険引受会社を作ったのもフランクリンです。 この会社は設立当初は消防団のような消火組織であったが、加入者が増えて規模が大きくなるとともに保険業を営むようになったとのことです。