海上保険の歴史

 海上保険の始まりは紀元前からあった「冒険貸借」であるといわれています。冒険貸借とは航海に出る者がその費用を融資してもらい、 無事に航海を終えた場合は高額な利息を支払うが、もし海賊や難破などの事故で船を失ったら借金は帳消しにするという契約です。 十字軍の遠征などにより地中海沿岸の交易が栄え12~13世紀にはスペイン、フランス、イタリアなどで冒険貸借がさかんに行われるようになります。 しかし金を貸して高利を得るということがキリスト教的隣人愛に反するという理由でローマ法王グレゴリオ9世が出した利息禁止令により 冒険貸借は禁止されてしまいます。 冒険貸借は禁止されましたが、これがなくては航海や交易に重大な支障を来たすため、 利息を事業に対する配当や寄付などに形を変えて利息禁止令の抜け穴を探すなどいろいろな方法で実質的な冒険貸借は続けられました。 そして最後には融資と危険負担という2つの要素に契約を分け、危険負担部分の契約のみが残り、 危険負担部分の代償を保険料として先に受け取ることになりました。 このような形で保険契約が成立しイタリア北部で発展していきました。 この保険や金融制度はその後イギリスに伝えられロイズ保険組合成立のルーツになります。

 おもしろいことにこの中世の保険の成立過程はそっくりそのまま現代にもあてはまります。 イスラム教ではやはり利息の受け取りを禁じているため、 イスラム圏では銀行業や保険業を営むことはイスラム法で禁じられています。 しかし実際にはタカフルというイスラム教義に合致した金融システムがあり、 これに日本の大手保険会社が進出しているのです。 タカフルも冒険貸借のときと同様にやはり利息を配当やら寄付やらに形を変えてイスラム教義に反しないようにしているものです。 利息であろうと配当であろうと寄付であろうと金に変わりはありません。 同じようなことは以前の保険業法の86条にキャピタルゲインはすべて準備金に積むように規定してあったため、 スシボンドやハラキリボンド(注)などを使ってインカムゲインにすり替えるというテクニックがありました。 これだけ科学の発達した現代においてもやはり歴史は繰り返されているわけで、人間の本性というか能力の限界を見るような気がします

(注)高い利息を支払う代わりに購入価格より低い償還金を支払うことで償還損を発生させる債権を 外国人投資家は日本人しか食べない腐った寿司のような債権(スシボンド)や自殺債権(ハラキリボンド)と呼んだ。 日本ではビックリボンドとも呼ばれる。これを購入することで意図的に償還損を発生させ、 キャピタルゲインを打ち消してインカムゲインとすることができ、保険業法のウラをかくことができたのです。

17世紀中ごろにロンドンに多くのコーヒー店ができて社交や商談の場となりましたが、 テムズ河畔にあったエドワード・ロイドのコーヒー店は海運業者、貿易商、海上保険業者の溜まり場となり、 ロイドが正確な情報を提供したためここを中心に海上保険業者が繁盛し、これが後のロイズ保険組合となります。

ロイズは保険会社ではなくアンダーライターの集まりです。 ロイズアンダーライターは代々世襲制でネームと呼ばれる無限責任の保険の引き受けメンバーのために保険を引き受けます。 (現在は有限責任の法人ネームもあります) ロイズブローカーが持ち込んだ保険証書にアンダーライターは自分の引き受け額を記入しサインします。 アンダーライターは前のアンダーライターのサインの下に自分の引き受け金額を記入しサインをするため、 次々に下にサインをしていくようになり、保険金額すべてがカバーされるまでこの作業が続けられます。 このため保険の引き受けをアンダーライト(Under Write:下に書く)と呼ぶようになりました。そして引き受けを行う人をアンダーライターと呼ぶのです。

現在のロイズのオフィスビルはその変わった外観からロンドンの観光名所になっていますが、 もちろん一般人は業務に差しつかえのないよう観光ルートに指定されている場所にしか入ることはできません。 でも損害保険会社に勤める人間なら海上保険の原点であるロイズ再保険の取引現場を一度は見てみたいと思うものです。 損保会社はたいていロイズブローカーとの取引があるので、 損保会社の人間なら出張などでロンドンに行くときは自社が取引しているロイズブローカーに頼みこんでロイズビルの内部に連れて行ってもらい 実際の取引現場を見てくることができます。 私も昔ロイズブローカーに連れられて見学したことがありますが、 現在の取引はコンピューターで行うので実際にブローカーがアンダーライター達の間を動き回ったりすることはほとんどないと思われます。

 日本の保険制度の始まりもヨーロッパの場合と非常によく似ています。 江戸時代初期、南蛮貿易で活躍した朱印船にも船主に高い金利で資金を貸し付けて、 海難事故や海賊襲来などで船や船荷を失った場合には返済を免除する「抛金(なげかね)」という制度がありました。 この制度は日本と交易をしていたポルトガル人が冒険貸借を持ち込んだものといわれています。 その後、徳川幕府が実施した鎖国により、貿易が禁止になりましたので「抛金」も衰退しましたが、 17世紀末に始まったのが、『海上請負』の制度で、問屋や船主が、運送費に保険料を上乗せすることで、輸送中の損害を補償するというものでした。

 わが国に保険の考え方を紹介したのは福沢諭吉で、その著書『西洋事情』の中で「火災請負ひ(火災保険)」、 「海上請負ひ(海上損害保険)」のことについて解説しています。 明治以降は日本でも多くの保険会社が設立され、経営難に陥っては合併を繰り返したりしましたが、 第二次大戦後の経済混乱の後は政府の監督の下に長く国内損害保険20社体制が続きました。 しかし、金融が自由化されるとともに、業界の再編成が始まり、 通販専門保険会社やそれまで無認可で営業していた共済を保険会社として認可した小額短期保険会社が誕生し現在に至っています。 金融自由化とともにそれまで独占禁止法の適用除外だった損害保険業にも独占禁止法が適用されるようになりましたが、 自動車損害賠償責任保険(強制保険)と地震保険は公共性が強いため依然として独占禁止法の適用除外になっており、 これらは保険会社が自由な価格設定をできないだけではなく、原則として引受の拒否もできません。