本の35ページに損保業界の研究会の話が出てきますが、その頃の保険業は独占禁止法の適用除外となっていて、 業界に属する会社はすべて同じ商品を同じ値段で売っていました。(いわゆる護送船団方式というものです) また、どこかの会社が新商品を開発すると他の会社にも無償で認可を開示して売らせてくれました。 そのため業界での取り決めをおこなう委員会や勉強会や情報交換会が頻繁にあり所属する会社が違っても社員どうしは非常に仲が良かったのです。 業界各社合同でのゴルフはもちろん大蔵省の方々を招いての花見、ボーリング大会や釣り大会なども行われていました。 各社の同好会のメンバーに担当官がいることもありましたが、その中には後に大銀行を潰す鬼の検査官となる方もおられました。 現在の常識では役人接待など考えられませんが、当時は業界を監督指導する立場にあった大蔵省の課長などが会社の保養施設やテニスコートを 使ったりすることもあり、和気藹々の雰囲気で古き良き時代といったら言い過ぎでしょうか。 現在では保険も独占禁止法が適用されるのでカルテルは許されませんが、公的保険の色彩が強い地震保険や自賠責保険(自動車の強制保険)は 今でも独占禁止法適用除外です。これは業界を守るというよりは値下げ競争により保険会社が契約者の選別を行うことを許さないためです。

 損保が保険数理を扱うようになったのは生保に類似した積立保険を売るようになってからで、そのあたりから損保協会や損保算定会 (現在の損害保険料率算出機構)が中心となり保険数理の研究会が組織され損保各社から若手のアクチュアリー候補を集めて 商品開発、経理、損害調査などのテーマ別に研究活動を行い成果を発表していました。 多いときは100名近い参加者がいて講師は大手会社のアクチュアリーや業界の専門家で報告書作成のときは合宿なども行っていました。 この研究会は多くのアクチュアリーを輩出し、彼らはその後の業界の保険数理業務の中心となっていきます。

古手の役員や部長クラスの年代の人たちは若い頃に独占禁止法適用除外の時代を経験しているので、他の会社の保険を開示してもらったり、 共同で保険を開発したり、そのための勉強や合宿などもした経験があり、旧知の間柄なので会社が違っても昔からの付き合いが続いています。 金融自由化が始まると各社が独自商品を開発するようになり共同での開発はなくなりましたが、 最後の業界共同作業は生保・損保の相互参入が決まったときでした。 このときは日米保険協議の結果、それまで外資系だけが販売していた第三分野(傷害・疾病保険などの分野)が国内生保・損保に開放されることになり、 損保も子会社生保で販売する生保商品の開発を行いましたが、外資が参入してくるタイミングがせまっていたため大蔵省の指導で 業界が結束して共同で生保商品の開発をしました。

ここまで苦労して作った生損保子会社ですが、はやり餅は餅屋でそれなりの知識や運営体制がなければ長続きしません。 結局生損保子会社で残っているのは人材に恵まれ運営体制の整っている大手の子会社だけで、中堅損保や生保の子会社は 大手や相手業界に売却され、そのうち中堅生損保本体も大手に吸収されてしまいました。 大手は持ち株会社体制になり損保本体は持ち株会社の子会社となり、子生保も同様に持ち株会社の子会社となりました。

 損保協会が主催していた数理研究会では中小損保からもアクチュアリーが育っていましたが、海外営業をおこない最新の知識に触れることが できる大手のアクチュアリーと比べて自社で独自商品を開発する体制もなく大手会社の開発した商品を売るだけの中小会社の アクチュアリーはせっかく身に着けた保険数理を活用する場もなく、理系出身という理由だけでコンピュータ部門に配置されていたりして、 自身のキャリアアップのために生保や信託銀行に転職するケースも多くありました。 アクチュアリー試験では生保・損保・年金が出題されるため、生保や年金を扱う信託銀行に転職することは不自然ではありません。 むしろ、その頃の損保業界は結束が固く業界他社の人間を採用しないという人事協定もあったので、損保に転職する場合は 協定に加入していない外資系しか選択はありませんでした。 あるとき中小損保の担当者が大手会社が開発した商品の数理が説明できないことを問題視した大蔵省がアクチュアリーのいない中小損保に社長名での 養成計画を提出させ、保険数理担当部門を設置することも指導しました。 同時に損保業界から他業界にアクチュアリーが流出していることを危惧していた一部の大手会社と大蔵省の主催で システム部門等数理とは関係のない部門に配属されている中小損保のアクチュアリーを指名し勉強会を行ったりして 若手アクチュアリーの業界からの流出を防ぐ動きもありました。 その頃の中小損保の経営者にとってアクチュアリーはどうでもよかったのですが大蔵省の動向は非常に気にするので アクチュアリー達は大蔵省に足を向けて寝られないと言ったものです。

 海外では金融機関はリスク管理を導入した経営が進み積極的にリスクをとり収益を上げているのに、護送船団から脱却したばかりの 日本の金融業界のリスク管理ははるかに遅れており大手金融機関は積極的に理系人材を採用するようになりました。 また保険業法が改正され損保にも保険計理人制度が導入され、計理人の要件であるアクチュアリーの需要が高まってきました。 それに伴い中小損保もアクチュアリーを養成しようとしましたが、損保協会の保険数理の研究会は金融自由化により消滅していましたし、 それまでに育った若手アクチュアリー達もほとんどが転職してしまっていて、中小損保は保険計理人を社外から採用するしかありませんでした。 しかし大手から若手のアクチュアリーなど引き抜けるわけがなく、ほとんどは大手や外資系を定年退職したアクチュアリーというのが実情です。 彼らがアクチュアリーとなった年代はアクチュアリーのほとんどいない護送船団時代なので、ほとんどが顔見知りです。 今でも定期的に開催されるアクチュアリー会の講習会や会議で顔を合わせますが、昔は共同で保険を開発したり、 国際会議に出席したりと勉強でも仕事でも飲み会でも一緒だったわけです。 このため社内ですべての情報が得られる大手会社のアクチュアリーはいいのですが、中小会社で保険計理人をやっているアクチュアリーたちは この人脈が業務遂行上不可欠になります。自分が何か判らないことがあったり、間違えても社内に教えてくれたり間違いを見つけてくれる人はいないのですから。

 保険というのはいわゆる認可事業で、認可の内容等は認可書に記載されているのですが、いろいろ政治的な事情ですべての内容を明確には 書いてありません。従って何ができて何が出来ないのかは、その認可取得時の事情等を知らなければ出来ないことがよくあります。 正式な認可書以外に認可取得時の経緯やら交渉メモやらが重要な意味を持つこともあります。 これを知らないで認可書の文言を自分勝手に解釈して物事を進めるととんでもないことになることもあります。 あるいは昔会社が隠していた不祥事が露見したりすることもあり、地雷を踏まないように仕事をすることも生きていくうえでは必要です。 従ってアクチュアリー達は自己防衛本能に基づき常に情報交換を行っているわけです。

 重要な情報というのは数多くの情報の中に埋もれていることが多く、重要な情報を得るためには頻繁に情報を交換します。 当然、誰かが会社を辞めたとか職を探しているなどの情報も流れますから、一般のヘッドハンターより早く情報が入ってきます。 アクチュアリー専門のヘッドハンターという方もいてアクチュアリーの集まりにもよく参加していますが、 職探しなどは最初に親しい身内に内々で話すことが多いので、身内で転職が決まるなどということもよくあります。 とりあえずアクチュアリーになっておけば食うには困らないとはいえると思います。